亡くなった人に対するFacebookでの誕生日祝いのコメント。

Facebookを開設しておりますと、自分と友達になっている人の誕生日には

「今日は〇〇さんの誕生日です。」

とFacebookからメールでお知らせが来ます。

そのメールのリンクをクリックすればその人のFacebookに飛んで誕生日おめでとうのコメントを投稿することができます。

ですがFacebookも何年もやっておりますと、中にはすでに亡くなってしまった人も何人もいます。

本人はFacebookを残したまま亡くなっているわけですからそのままの状態になっています。

亡くなっていてもFacebookから当日になれば、誕生日のお知らせが届きます。

自分のとある友人も去年亡くなったのですが、Facebookはそのままです。

ですがその本人と身近に接しているごく親しい友人がその人のFacebookにこういった形で亡くなったことを知らせる投稿していました。

7月11日にご逝去(せいきょ)されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

ですがそのすぐ上の方に、誕生日をお祝いするコメントが何件も投稿されています。

お誕生日おめでとう。また1年頑張っていきましょう。
お誕生日おめでとうございます。健康に気をつけて日々をお過ごし下さい。
誕生日おめでとうございます。仕事に趣味に頑張っていきましょう。
誕生日おめでとうございます。よき1年を。

こういった形でおめでとうございますのコメントが何件も続き、その後はばったり投稿はありません。

もちろん本人の投稿はあるはずもありません。そしてその1年後、再び誕生日がやってきまして、また同じように誕生日おめでとうのコメントが上に連なっていきます。

全体で見ると「ご逝去(せいきょ)されました」の上に「誕生日おめでとう」ばかりがどんどんと投稿されているという形になっています。

もちろんお祝いコメントした人はその人が亡くなっていることは知らないでしょう。

決して悪意があって書いているものではありません。下の方まで見れば分かるのですが、みんな忙しいので、下の方まで見ない人も多くいます。

こういった状況は仕方のないことですが、これを見てどのように思うかは人によって随分と違うと思います。

やはり人によっては

「もう死んでるのにお祝いコメントなんか書くなよ。ちゃんと下に亡くなったと書いてあるだろうが。不謹慎な。」

そんな風にムカつく人もいると思います

ですが考え方次第では、こういった現象はそれほど悪いことではないと思います。

昔、自分が親族の法事に出た時に、そこに来たお坊さんの法話の一部にこういった言葉がありました。

「回忌(かいき)法要を行うというのももちろん供養ですが、皆さんにできる何よりの供養は、亡くなった方を時々思い出してその人の話をする、話題にする、そしていつまでも忘れないということが何よりの供養になるのではないかと思います。」

この言葉が随分と頭の中に残ってまして、この誕生日コメントもそれと似たような感じなのではないかと思います。

少なくともFacebookからお知らせが来て、誕生日おめでとうのコメント入力している最中はその人のことを思い出しているわけでして、投稿しようとしてその人のFacebookにアクセスすればプロフィール写真が目に飛び込んできます。

そのわずかな時間だけですが、その人のことを思い出しているということは、故人の供養の一つになるのではないかという考え方もできると思います。

この辺りは人の感性の違いですね。不愉快を感じる人もいるでしょうが、自分は一概にそうとばかりは言えないと思います。



TSUTAYA online

サブコンテンツ

このページの先頭へ