お客と一緒に壁の上を歩く。
無線配車で迎えに行った、とある飲み屋さん。
店に入って挨拶をするとママさんが出てきて「これでお願いしますね。」と、千円渡された。
乗るのはここの従業員の女の子のようだが、その子は、ママさんと店の客らしき人に両手をつかまれて店から出てきて、やっとタクシーに乗りこんだ。もう見るからに相当酔っているのが分かる。
以前送ったことがあるので家は知っているから道は問題ない。家の前まではすんなり着いた。
「ありがとうございました。」と言ってドアを開けると、そのコが、
「あれぇ、カギがない~。」と、カバンの中を探しながら叫んだ。
「カギがない?なかったら家に入れないんじゃないんですか?」
と言うと
「あー、大丈夫よ、窓から入るから。」
と言う。
「窓から入るって、どの窓です?」
「あそこ。」と指差した窓は地上から高さ2メートル以上ある場所だった。
これは現場の写真ではないが(窓は加工)、石垣の上にアパートが立っていて、柵(さく)がない。
このアパートの右にも建物が立っていて、その建物は壁に囲まれている。
だから、隣の建物の壁の上によじ登って壁の上を歩いてアパートに近づき、最後に何十cmかの高さを乗り越えられれば、アパートの敷地には入れる。
こういった感じの壁の上を歩いて近づくのだ。これは現場ではないが、似た風景の写真である。
窓のカギは開(あ)いているらしいから、あの窓の前まで到達できれば部屋の中には入れる。
「最初にあそこに足をかけてあそこに登って、それから隣の建物の壁の上を歩いていけば何とかたどりつけるか・・。」
一応の方針は分かったが、しかし本人は酔っぱらいで、しかもハイヒールを履いている。
「じゃあねぇ・・。」と言いながら車から降りたとたん、さっそくバランスを崩してすぐ横の壁に手をついて身体を支えていた。
「ちょっと、ホントに窓から入る気?」と、車から降りて話しかけてみると
「うっせーな!私の勝手だろ!」
と、言われた。
そのコが最初の足場に足をかけた。やっぱり登る気だ。
しょうがない、一緒に登ろう。目の前で転落事故など起こったらたまったもんではない。
「ちょっと待てちょっと待て!僕も一緒に行くから!」と言って、自分も後について登ることにした。
歩けるのは幅が20cmくらいの帯状になった部分。建物の方向に身体を向け、建物の壁に手をつく。背中の方は吹きさらしで、後ろにひっくり返ることは転落を意味する。
その細い部分を二人で並んでカニ歩きしながらゆっくりと進む。自分は片方の手で、そのコの首の後ろのエリをつかんで、後ろにバランスを崩さないようにちょっと前に押し気味に支えた。でも足を踏みはずしたら、これでは多分支えきれない。
最初の段階が終わって、アパートの隣の建物の壁の上に移った。そこをさらに歩く。
距離にしてだいたい5mくらいのものだったが、果てしなく長く感じた。知らない人が見たら多分不審な行動と思われるだろう。
びびりながらも、ようやく窓の前の敷地までたどり着いた。この敷地も柵がないので怖い。
すぐに窓をガラッと開けて、持っていた首の部分を後ろからどんっと突き飛ばす。前にとっとっとっとなりながら、そのコはやっと部屋の中へと入った。もちろんハイヒールのまま。
こっちがほっとしていると、肝心のこのコは、「わ~、帰ってきたぁ。」などと喜んで、全然こっちの気遣いなど気づいていない。
「じゃあね!」と言って、すぐに外から窓を閉めた。が、閉めたとたん、中からまた開いて「ありがとう~!」と言いながらまた外に足を踏み出そうとしたので、こっちも頭に来て
「えーから中に入っとけ!」
と言って、再び窓をぴしゃっと閉めた。
それからまた、今来た壁の上をそろそろと帰り、やっと地面に降りることが出来た。帰りに自分だけ転落したら大マヌケなことになっていたが、なんとか無事終了した。
とにかく人に見られなくてよかった。見られたら完全に侵入者だと思われてしまう。